戦艦大和の艦長として、乗組員から絶大なる信頼を受けた森下信衛大佐。 明治28年、愛知県で生まれ、大正6年に海軍兵学校を卒業。 水雷一筋の海軍生活を送り、 海軍大学校卒業後は、駆逐艦夕月の艦長をつとめる。 太平洋戦争がはじまったときには、軽巡大井の
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戦艦から空母へ
空母信濃は、もともと大和型戦艦の3番艦として誕生するため、 1940年5月4日に横須賀海軍工廠で起工されました。 起工後まもなく太平洋戦争がはじまり、 海戦でもっとも有利なのは航空機だということが一般論となります。 もはや戦艦は必要ではない、 という
空母信濃艦長・阿部俊雄大佐
空母信濃の最初で最後の艦長となった、阿部俊雄大佐。 彼が信濃の艤装委員長としての辞令を受けたのは、 軽巡大淀の艦長をしていたときでした。 この辞令の2ヶ月前、マリアナ沖海戦において、 空母大鳳・翔鶴・飛鷹が相次いで破壊沈没。
空母信濃の最後
空母信濃がその巨艦を海に浮かべて5日後の、1944年11月24日。 すでに日本本土はアメリカの爆撃機B−29による空襲が頻繁に行われるようになっていました。 信濃艦長、阿部大佐のもとに、連合艦隊司令長官より命令がでます。 内容は、信濃および第17
戦艦大和艦首部
大和型戦艦の特徴を解説しています。 今回は、艦首部。 この部分の特徴はとえば、 やはり、「バルバスバウ」と呼ばれる球状艦首です。 今までの軍艦では使われていなかったもので、 大和型戦艦から採用されたものです。 人気blogランキング、です。