初代艦長、高柳儀八より戦艦大和の艦長をひきついだのが、
松田千秋大佐。


松田千秋は明治29年、熊本県大城町で生まれました。

熊本中学を卒業後、海軍兵学校に入学。

大正5年に卒業し、砲術校で砲術を学ぶ。


大正12年からは駆逐艦の砲術長や砲術校の教官をつとめました。


昭和に入り、欧米出張などを経験。

戦艦日向の艦長をつとめていた昭和17年、
高柳儀八の後任として戦艦大和の艦長へ就任しました。


松田千秋大佐は頭がよく、
すでに戦術家としての地位をきずいていました。


大和においては、海軍大学教官としての経験をいかし、
甲板上で講義が行われるようになり、
いつしか「大和大学」といわれるほどに好評をはくしていきました。


松田千秋大佐が大和艦長に就任後まもなく、
日本軍はガダルカナル島からの撤退を決意します。


半年間にわたるガダルカナル島での攻防で、
多数の艦艇と900以上の航空機を失いました。


昭和18年5月に松田千秋艦長は少将に進級。

その月の10日には対空兵装強化のため、
大和は呉に帰還。

8月23日、改装を終えた大和はふたたびトラック泊地に到着。

9月7日に大和艦長は松田千秋少将から、大野竹ニ大佐へとかわりました。


昭和19年、松田千秋少将は第4航空戦隊の司令官となり、
翌年には、戦艦「伊勢」「日向」、軽巡洋艦「大淀」、駆逐艦「朝霜」「初霜」「霞」を指揮し、
シンガポールへの輸送作戦、『北号作戦』を成功させます。

その後、横須賀航空隊司令において終戦をむかえました。