空母信濃は、もともと大和型戦艦の3番艦として誕生するため、
1940年5月4日に横須賀海軍工廠で起工されました。

起工後まもなく太平洋戦争がはじまり、
海戦でもっとも有利なのは航空機だということが一般論となります。

もはや戦艦は必要ではない、
という『戦艦無用論』がとなえられるようになっていました。


最大最強戦艦として誕生する予定の信濃にはつらい現実です。

大和や武蔵は、太平洋戦争前に工事がおこなわれたので、
その建造には全ての優先順位があたえられ、
丁寧に丁寧に時間をかけて作られました。

帝国海軍の至宝として扱われていた大和や武蔵に比べ、
その誕生を望まれなくなってしまった信濃の扱いはさんざんでした。


まず、戦時下においては損傷艦の修理や改造が優先されるため、
信濃の工事は何度も中断。
長いときには3ヶ月も工事が中止されたこともありました。


そして1942年におきたミッドウェー海戦において、
日本は空母赤城・加賀・蒼龍・飛龍という4大空母をいっきに失ってしまい、
きゅうきょ、空母が必要となりました。

そこで白羽の矢がたてられたのが、戦艦として誕生する予定だった信濃。

もはや戦艦は必要がないと判断されていたこともあり、
空母へと改装されることになりました。


しかしその改装も問題ありでした。

建造を急ぐあまりに突貫工事がおこなわれ、
工期の繰り上げ、作業の省略化によって、
機密試験などもすっとばされてしまいました。

さらには搭載されるはずの高射砲や機銃はほとんど搭載されず、
動力部分に関しては機関12缶のうち8缶しか整備されておらず、
予定の最大速力27ノットを出すことができませんでした。

こうして、空母信濃は1944年11月19日にむりやり竣工させられたのです。


ずさんな工事ではあったものの、
やはり大和型戦艦を改装しただけあって、その巨大さは当時最大の規模でした。

まず基準排水量は62000トン。
全長は266メートル、全幅は38メートルと、ほぼ戦艦大和と同じです。

飛行甲板の長さは256メートル。幅は40メートル。

飛行甲板には、急降下爆撃の500キロ爆弾に耐えれる対爆弾防御が施されていました。

アメリカ潜水艦の艦長、ジョセフ・エンライト中佐は信濃を見て、
「発着艦が同時にできるほど巨大だ!」と思ったそうです。


そしてこの未完成の艦には、阿部俊雄大佐が艦長として就任することとなります。