戦艦大和四代目艦長 森下信衛大佐

戦艦大和の艦長として、乗組員から絶大なる信頼を受けた森下信衛大佐。


明治28年、愛知県で生まれ、大正6年に海軍兵学校を卒業。

水雷一筋の海軍生活を送り、
海軍大学校卒業後は、駆逐艦夕月の艦長をつとめる。

太平洋戦争がはじまったときには、軽巡大井の艦長であった。


その後、軽巡川内の艦長時代にミッドウェー作戦や第3次ソロモン海戦に参加。

戦艦榛名の艦長を経て、1944(昭和19)年1月25日に戦艦大和の四代目艦長に就任した。


森下大佐就任後、シンガポール東方のリンガ泊地において、
大和乗組員は血のにじむような訓練を経験する。

その訓練の厳しさからか、森下艦長の最初の印象はあまりよくなかった。

しかし、野武士的な豪放さからか次第に乗組員からの信頼を得るようになる。



昭和19年10月17日、アメリカをはじめとする連合軍がレイテへと進出。


すぐさまレイテ湾奪回のための「捷(しょう)一号作戦」が発動され、
1944年10月22日、大和をはじめとする戦艦7隻、重巡11隻、軽巡2隻、駆逐艦19隻からなる第一遊撃部隊は、レイテへと向かった。

この第一遊撃部隊には空母は1隻も含まれていなかった。

四大空母を失った機動部隊は最後の航空戦力をかき集めて、
敵機動部隊を北方にさそいだす、おとりの役目をすることになっていたのである。



10月23日早朝、パラワン水道において、敵潜水艦による魚雷攻撃で、
旗艦の愛宕が沈没。
ほとんど同時に摩耶も魚雷を受けてあっという間に沈没。
高雄も魚雷攻撃を受けて戦闘不能状態におちいり、戦線を離脱した。



10月24日午前10時26分、ついに敵機による来襲がはじまった。

大和、武蔵、長門をめがけて次々と魚雷や爆撃が投下された。


このとき、森下艦長は操艦の名手としての技術をいかんなく発揮する。
乗組員が、神業とまで称したその操艦技術で、
巧みに敵の攻撃をかわしていったのである。

敵機銃弾が飛び交う中、もっとも狙われやすい艦橋トップの防空指揮所において、
森下艦長は防弾チョッキもつけず、くわえ煙草のまま「面舵」「取舵」の指示を出していた。


戦艦大和―レイテでの戦い02
※敵の爆撃弾をかわす戦艦大和


戦艦大和は敵の魚雷や爆撃をかわし、ほとんど命中弾を受けることはなかったが、
大和型戦艦の2番艦、武蔵は敵機の激しい攻撃を受け、シブヤン海に沈んだ。


武蔵沈没後も連合艦隊は前進を続け、サマール島沖で敵艦を発見した。

森下艦長が「撃ち方はじめ」の命令を出す。
このとき、はじめて戦艦大和の主砲が敵艦に向けて発射されたのである。


戦艦大和をはじめ、長門、金剛、榛名も続けて砲撃を開始。

アメリカ軍の駆逐艦「ジョンストン」に命中弾を与えた。

敵空母は煙幕を張りながら必死に逃走。
スコールにも助けられ、敵艦隊の姿は消えた。



逃げる敵艦隊から飛来してきた艦載機の攻撃が終わったあと、
連合艦隊はレイテ湾突入を目指して進んでいたが、
レイテ湾を目の前にして、突然、北へ反転した。


この反転命令の理由ははっきりとはわかっていない。
栗田長官による謎の反転命令である。


乗組員には、「北方にいる敵機動部隊攻撃に向かう」とだけ伝えられた。

しかし、敵機動部隊は存在せず、
レイテ湾に突入する機会を永遠に失ってしまうこととなった。


レイテ湾突入を前にした反転命令に納得のいかない乗組員達は、
司令部の参謀や砲術長を問い詰めて文句を言った。

当然、司令部の命令は変更されず、艦隊は北上し呉へと向かった。

呉へもどったあと、参謀を批判した乗組員達は、
フィリピンなどの激戦地にまわされ、そのほとんどは戦死した。



戦艦大和―レイテでの戦い01
※呉にもどる途中では敵艦載機の攻撃を受け、前甲板に直撃弾を受けた。



呉にもどった森下艦長は、大和艦長を有賀幸作大佐にゆずり、
第二艦隊参謀長となる。

そして、沖縄への水上特攻時にも参加した。


大和の沈没が決定的となったとき、
艦と共に沈んでいこうとする部下を殴りつけて止めた。


駆逐艦冬月に救助された森下少将は、呉に戻り海兵団長をつとめる。
戦後は、呉地方復員局長をつとめ、昭和35年に他界した。




この記事へのコメント
1. Posted by あk   2006年04月04日 10:40
はじめまして。大和乗組員の命日が近いですね。色々迷った挙げ句、こちらに書き込みすることにしました。先日祖母に会った際に始めて聴いたことなのですが、彼女の叔父にあたる人が軍医として大和に搭乗していたとのことです。下の名前が「忠太」、名字が確か「井上」だと思います。養子に出ていたので名前が乗組員として登録してある名前と違う可能性もあるそうですが、確かに軍医として大和に参加しているはずです。そういった情報があれば掲載していただけませんでしょうか?宜しくお願いします。
2. Posted by でじたる書房   2006年04月05日 20:03
5 タナカ様

はじめまして。

ブログ楽しく拝見させて頂きました。

最近、『戦艦大和(せんかんやまと)』のような面白いブログは、修正・加筆して電子書籍として販売するとヒットすることがよくあります。

そして、無料で登録できる電子書籍でヒットしたら、次はそれをそのまま商業出版化する、という流れも出てきています。

そこでお願いがあるのですが、商業出版のアシストもしているでじたる書房で、あなたのブログを販売してみませんか?

■TOP:http://www.digbook.jp/
■ライター登録ページ:http://www.digbook.jp/writers_site/
■ライター登録者数:1460人
■総書籍数:6000冊

ご登録、販売にあたり費用は一切無料です!
お待ちしております!
3. Posted by タナカ   2006年04月05日 23:06
あkさん、こめんとありがとうございます。

そうですか、親戚の方が大和に軍医として乗られていたんですね。

井上忠太さんですか・・・


調べてみます。

分かりしだい、このブログに掲載させていただきますので、しばらくお待ちくださいね。
4. Posted by あk   2006年04月06日 18:40
ありがとうございます。祖母がその軍医に会った時、彼女はまだ子供でしっかりと覚えていないのです。またその養子先の家族も空襲で皆死んでしまい、手がかりがありません。大和沈没時の軍医のリストとその生年月日でも分かれば嬉しく思います。宜しくお願いします。
5. Posted by タナカ   2006年04月09日 18:10
あkさん、親戚の方が軍医として大和に乗っていたということで、いろいろ調べてみました。


大和に関しては数多くの書籍が出版されていますが、
やはり乗組員のリストということになると、
僕のもっている本には掲載されていませんでした。


ただ1冊、辺見じゅんさんが書かれた「男たちの大和」の下巻の最後のページに、戦艦大和戦没者名簿が掲載されていたので、そのページを調べてみました。


しかし「井上忠太」という方の名前は見つかりませんでした。

別人かもしれませんが「井上忠秋」という方の名前がありました。


調べてみた結果、以上のことしかわかりませんでした。

あまりお役にたてなかったようですいません。
6. Posted by きよこ   2012年12月01日 22:20
5 最後のレスが2006年ですが、書かせて頂きます。

私のひいおじいさんが森下艦長です。
まだ祖母の家には森下さんの遺品が残っております。
「永遠のゼロ」という本を読み始め、森下の名前で検索させて頂、色々読みあさっている状況です。
祖母(森下の娘)はまだ生存しております。


これからもう少し自分でも調べてみようかと思います。
この記事にコメントする
名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔