戦艦大和五代目艦長 有賀幸作大佐

第二艦隊参謀長となった森下信衛少将から戦艦大和の艦長をひきついだのは、水雷学校の教頭をしていた、有賀幸作(あるがこうさく)大佐であった。


そして有賀大佐は戦艦大和最後の艦長となった。


明治30年、長野県上伊那郡朝日村字平出に生まれた有賀は、
兵学校を卒業後、水雷屋としての道を歩み、
第四駆逐隊司令時代に開戦をむかえた。



有賀幸作艦長

開戦当初から駆逐艦とともに数多くの戦場に参戦していった。




そして1942年、空母四隻を失ったミッドウェー海戦の敗北を経験する。


このとき、駆逐艦四隻を率いる第四駆逐隊司令として参加していた有賀に、山本司令長官からの命令が伝えられる。


それは、敵機の攻撃により炎上していた、空母赤城を自沈させる命令であった。


有賀はその命を受け、すでに自力での航行が不可能となっていた赤城を魚雷で沈めた。




ミッドウェー海戦後、ガダルカナル島の争奪戦に参加することとなった有賀は、敵艦との決戦ではなく、陸軍への糧食輸送、すなわち補給作戦に従事することとなった。



駆逐艦の苦手とする飛行機が網をはっている中を行くのである。

非常に困難な任務であった。



他の司令や艦長からは、この任務をいやがり、逃れようとする者も出たという。



しかし、有賀は文句ひとつ言わず与えられた任務をこなしていった。




1943年3月、有賀は第八艦隊所属の鳥海艦長となるが、8月に熱帯病で倒れた。

その後も回復することはなく、鳥海艦長を交代して内地へと送還されることとなる。



病から回復した有賀は水雷校の教頭をしていた。

そして1944年11月に戦艦大和艦長の辞令が下った。



有賀は手放しで喜んだ。長男に大きな字で手紙を送っている。

「大和艦長拝命す。死に場所を得て男子の本懐これに勝るものはなし」と。



そして1945年、海上特攻隊としての沖縄突入作戦を知らされる。

「第一遊撃部隊は海上特攻隊として八日黎明沖縄島に突入を目途とし、急速出撃準備を完成すべし」



4月6日。

戦艦大和は、矢矧、冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞とともに、「一億総特攻のさきがけ」として沖縄に出撃していった。


出撃前、有賀艦長は前甲板に総員を集めて連合艦隊命令を読み上げた。

そして、

「出撃にあたり、いまさら改めて何も言うことはない。乗員各員が捨身の攻撃精神を発揮し、日本海軍最後の艦隊として、全国民の輿望にこたえるよう」

と結んだ。




4月7日、敵機の来襲にさらされた大和は、艦の傾斜が20度以上となり、もはや復元は不可能となっていた。


復元不可能な戦艦大和
傾斜を深める戦艦大和


「総員退去の命令をだしますか?」
副長からの進言に、有賀艦長はすぐにはこたえなかった。

黙って厳しい表情をしていた。

そのとき、そばにいた見張員が「艦長了解」と副長に返答をした。



吉田満著の「戦艦大和ノ最期」では、
有賀艦長は「身三箇所ヲ羅針儀ニ固縛ス」と書かれている。


しかし生存者の証言では、「そのときそばに身を縛るものなどなかった」と語っている。

「有賀艦長は羅針儀をぐっと握ったままであった」と語る。



大和沈没後、有賀幸作艦長が海を泳いでいる姿が目撃されている。


そして「艦長!艦長が生きとる!」という声を聞いた有賀艦長は、
自ら海中へと姿を消していったと語られている。



どちらの証言が正しいのかはわからない。

ただ、この沖縄特攻に参加した多くの乗組員と同じく、有賀艦長はかえらぬ人となった。



戦死後、2階特級の中将となる。享年49歳。




この記事へのコメント
1. Posted by 仁   2015年03月03日 23:12
他の誰もが死にたくないのでお前が代わりに死んで来いといわれたのですね、心中お察しします。
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