戦艦大和が作られた時代背景

日本海軍は、国産で主砲や主砲塔を製造できるようになると、世界に先がけて巨大戦艦を建造するようになっていた。


金剛型戦艦の「比叡」「榛名」「霧島」に続き、扶桑型戦艦を建造する。

そして、八八艦隊計画に基づき、40センチ砲を搭載した長門型戦艦を建造していった。



大正10年にワシントン会議で締結された海軍軍縮条約によって、日本の戦艦は1921年に竣工した長門型戦艦の2番艦「陸奥」を最後に、以後の建造は中止された。


この軍縮条約により、主力艦の保有比率を米英5、日3、仏伊1.75と定められたことにより、日本は防衛上の不安をかかえることとなった。


軍縮条約失効を目前にした1934年、国防上の劣勢を取り戻すべく新戦艦の建造計画がすすめられた。

このときすでに日本は、軍縮条約を廃棄することが決められていたのである。

そしてついに日本海軍長年の夢であった、大艦巨砲の実現をはかるために、大和型戦艦2隻が計画建造されることとなった。



戦艦大和が46センチ砲を装備した世界最大の戦艦でなければならかった理由は2つある。


まず、艦隊決戦における優位性をたもとうとしたこと。

約4万メートルの距離から敵艦隊に砲撃する場合。

敵の主砲弾がとどかない距離から先制砲撃を加えるために、当時の戦艦の最大口径砲である40.6センチ砲を上まわるために、46センチ砲の搭載が決定された。




次に、日米間の建艦能力の差とパナマ運河の存在が関わっていたこと。

当時の日本の国力はアメリカの10分の1といわれており、戦艦の建造数をアメリカと競った場合、万が一にも勝てるみこみがなかった。


しかし、アメリカ軍が太平洋まで出てくるには、パナマ運河を通過しなければならない。

太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河の幅に制約を受けるアメリカの軍艦の可能な船体幅は、約33メートルと推測される。

この推測をもとに考えられるアメリカ海軍の新造戦艦は、4万トン、40.6センチ砲、速力24ノットが限界であり、アメリカといえどもパナマ運河を使用せずに、太平洋と大西洋の両方に別々の艦隊を配備することは困難であると考えられた。


そこで、アメリカ海軍の船体幅ではとうてい搭載できない巨大砲を搭載することによって、優位に立つ事が可能であると判断されたのである。



これが、46センチ砲搭載の巨大戦艦大和の建造が決定された理由だといわれている。



こうして、仮想敵国のアメリカを意識する中、超巨大戦艦といわれた戦艦大和が建造されたのである。




seyamato at 15:04│Comments(1)戦艦大和の生涯 
この記事へのコメント
1. Posted by REALIST   2007年01月13日 21:57
「大和ミュージアム」の鑑賞には、2時間は時間が欲しいところでした。
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