太平洋戦争がはじまって半年。
戦艦大和は初めての海戦に参加した。
ミッドウェー海戦である。
昭和17年5月5日、ミッドウェー作戦に関する「大海令」が出された。
そこには、
戦艦大和は初めての海戦に参加した。
ミッドウェー海戦である。
昭和17年5月5日、ミッドウェー作戦に関する「大海令」が出された。
そこには、
『海軍航空部隊は上陸数日前よりミッドウェー島を攻撃制圧。海軍は艦艇をもって攻略作戦を支援。反撃に来た敵艦隊を捕捉撃滅す。』
と示されていた。
機動部隊には、『赤城』『加賀』『飛龍』『蒼龍』の4空母を中心に、戦艦2隻。それに重巡、軽巡、駆逐艦で編成された。
そして支援部隊として、戦艦大和、長門、陸奥のほか、駆逐艦、航空母艦がこれに続く。
その数、艦艇350隻。航空機1000機以上。海軍将兵、約10万人にものぼる大艦隊であった。
ミッドウェーへの出撃準備のため、大和は5月13日に呉へ入港している。
主に補給と修理が目的であった。
真珠湾攻撃のときには、ギリギリまでその作戦を秘匿としていた。
しかし乗組員が呉へ上陸してみると、極秘であるはずのミッドウェー作戦は市民にも知れわたっているほどであった。
5月29日。
大和をはじめとする支援部隊は、ミッドウェーに向かった。
海軍の幕僚たちの間には、この作戦は必ず勝つという自信があった。
そこには何の根拠もなどない、ただのおごりが存在していた。
ミッドウェー海戦が始まったのは、6月5日の朝である。
はるか前方に展開する機動部隊が戦闘状態に入った。
大和のもとに次々と戦闘結果が伝えられた。
それは誰もが耳を疑うような内容ばかりであった。
『加賀』と『蒼龍』は沈没。
『赤城』は大破のため、自沈。
最後まで生き残っていた『飛龍』も沈没。
勝利を疑わなかった司令部の落胆ははげしく、ミッドウェー作戦は中止された。
大和は最初から最後まで、戦闘区域より遠くはなれた場所にあった。
ミッドウェー海戦で、空母『赤城』『加賀』『飛龍』『蒼龍』沈没。248機の艦載機、海軍将兵3,057名を失った。この中には日本の勝利をささえてきた熟練のパイロット達もふくまれていた。
この戦いにより、日米の攻守は逆転。
制空権を大きくうばわれてしまった日本に対し、アメリカは圧倒的な工業力で、次々と艦艇や艦載機を生産。
真珠湾攻撃による劣勢を挽回し、全力をあげての反撃がはじまった。
と示されていた。
機動部隊には、『赤城』『加賀』『飛龍』『蒼龍』の4空母を中心に、戦艦2隻。それに重巡、軽巡、駆逐艦で編成された。
そして支援部隊として、戦艦大和、長門、陸奥のほか、駆逐艦、航空母艦がこれに続く。
その数、艦艇350隻。航空機1000機以上。海軍将兵、約10万人にものぼる大艦隊であった。
ミッドウェーへの出撃準備のため、大和は5月13日に呉へ入港している。
主に補給と修理が目的であった。
真珠湾攻撃のときには、ギリギリまでその作戦を秘匿としていた。
しかし乗組員が呉へ上陸してみると、極秘であるはずのミッドウェー作戦は市民にも知れわたっているほどであった。
5月29日。
大和をはじめとする支援部隊は、ミッドウェーに向かった。
海軍の幕僚たちの間には、この作戦は必ず勝つという自信があった。
そこには何の根拠もなどない、ただのおごりが存在していた。
ミッドウェー海戦が始まったのは、6月5日の朝である。
はるか前方に展開する機動部隊が戦闘状態に入った。
大和のもとに次々と戦闘結果が伝えられた。
それは誰もが耳を疑うような内容ばかりであった。
『加賀』と『蒼龍』は沈没。
『赤城』は大破のため、自沈。
最後まで生き残っていた『飛龍』も沈没。
勝利を疑わなかった司令部の落胆ははげしく、ミッドウェー作戦は中止された。
大和は最初から最後まで、戦闘区域より遠くはなれた場所にあった。
ミッドウェー海戦で、空母『赤城』『加賀』『飛龍』『蒼龍』沈没。248機の艦載機、海軍将兵3,057名を失った。この中には日本の勝利をささえてきた熟練のパイロット達もふくまれていた。
この戦いにより、日米の攻守は逆転。
制空権を大きくうばわれてしまった日本に対し、アメリカは圧倒的な工業力で、次々と艦艇や艦載機を生産。
真珠湾攻撃による劣勢を挽回し、全力をあげての反撃がはじまった。
コメント
コメント一覧
タツノコプロ「アニメンタリー決断」の
ミッドウェイ海戦の回を見たところでした。。
あの戦い、いろんな小説やドキュメントで見るたびに切なくなりますが
本当に決断というのは過酷で・・
多くの教えを残してくれていますね。