1944年(昭和19年)10月24日。

フィリピン諸島中部の島、ミンドロ島近くを進む艦艇群があった。


戦艦大和、武蔵、長門をはじめとする27隻の連合艦隊である。

彼らは、航空機の援護を持たずにレイテへ突入しようとしていた。




この日の前日、23日早朝6時30分すぎ、パラワン水道において、第一遊撃部隊の旗艦「愛宕」が右舷に4本の魚雷を受けて沈没。

同じく「高雄」「摩耶」も魚雷を受けて沈没した。

それは早朝の対潜訓練が終わってすぐのことであった。


艦隊の動きは、アメリカの潜水艦により追跡されており、早くも重巡3隻が失われていたのである。



24日7時46分。
アメリカ空母インピレッドの索敵飛行隊が、2つのグループに分かれた日本艦隊を発見した。

栗田長官率いる第一遊撃部隊主隊である。

第1遊撃部隊対空陣形


第1部隊(上画像右側)は、戦艦大和・武蔵・長門を中心に、重巡妙高・鳥海・羽黒。
軽巡能代。駆逐艦島風に、夕雲型駆逐艦、早霜・秋霜・岸波・藤波・沖波・濱波。

計14隻。


第2部隊(上画像左側)は、戦艦金剛・榛名を中心に、重巡熊野・筑摩・鈴谷・利根。
軽巡矢矧。陽炎型駆逐艦野分・浦風・濱風・雪風・磯波。
夕雲型駆逐艦清霜。

計13隻。


10時13分、シブヤン海を東進中の連合艦隊は、敵編隊を探知。
敵機来襲の報が、大和より全艦にはっせられた。

10時26分、アメリカ軍の第一波45機が戦艦群に襲いかかった。

大和の三式焼霰弾(対空三式弾)発射に続き、各艦が一斉に攻撃を始めた。


弾幕の中をくぐり、敵機は急降下攻撃を繰り返してくる。


大和の森下艦長は巧みに魚雷や爆撃をかわしていった。


第1波の空襲の後に、第2波攻撃機31機が来襲。

やはり、大和・武蔵を集中してねらってきた。


この第2波までの攻撃で、大和には命中弾は無かったが、武蔵は直撃弾2発と魚雷3本を受け、艦首部は約2メートル沈下。そのため速力は22ノットにまで低下していた。


続く第3波の攻撃で、大和の1番主砲右舷前方に爆弾が命中。

一方の武蔵はさらに4本の魚雷を受けて被害が深刻化していた。
艦首の沈下は4メートルに達し、艦内の1147に分かれた注水区画のほとんどが浸水注水で満水となった。

速力は低下し、第1部隊から大きく落伍しはじめる。


第4波、第5波と続く敵機の攻撃は、ごくわずかの速力しか出せない武蔵に容赦なく集中した。

攻撃を受ける戦艦武蔵

命中した魚雷11本。直撃弾10発。

最上甲板や艦内は、戦死者と負傷者で埋め尽くされ、まさに地獄絵図と化していた。


生き残った乗組員は復旧作業を進めるが、左舷への傾斜は回復せず、その傾きは12度にまでなった。


19時15分。
武蔵艦長の猪口敏平大佐は、総員退去用意を命令。


19時30分。
武蔵は左に転覆。そして艦尾を立てたまま、シブヤン海へと消えていったのである。


猪口艦長は艦橋休憩室で武蔵と運命を共にすることを選んだ。


彼が連合艦隊司令長官にあてた遺書にはこう書かれてあった。

「不沈艦といわれた武蔵であったが、航空機の攻撃には以外に脆かった」