戦艦大和(せんかんやまと)

太平洋戦争時、日本海軍の象徴として誕生した、巨大戦艦大和の造形美をお伝えしています。
「大和は世界一美しいフネだった。・・・青春を犠牲にして悔いのないフネだった」(元大和乗組員)

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戦艦大和の生涯

1944年(昭和19年)10月24日。 フィリピン諸島中部の島、ミンドロ島近くを進む艦艇群があった。 戦艦大和、武蔵、長門をはじめとする27隻の連合艦隊である。 彼らは、航空機の援護を持たずにレイテへ突入しようとしていた。
『レイテ湾を目指す連合艦隊−戦艦武蔵の最期』の画像

ミッドウェー海戦後の8月。 アメリカ軍が大挙してガダルカナル島へ上陸した。 不意をつかれた日本軍は、建設したばかりの飛行場を奪われた。 日本軍は激しく抵抗するも、戦力の逐次投入を繰り返すだけであり、戦局を打破することは終ぞできなかった。

太平洋戦争がはじまって半年。 戦艦大和は初めての海戦に参加した。 ミッドウェー海戦である。 昭和17年5月5日、ミッドウェー作戦に関する「大海令」が出された。 そこには、

連合艦隊に加わった戦艦大和は、柱島にて時の連合艦隊司令長官、山本五十六を迎えることとなった。 昭和17年2月12日、長く連合艦隊旗艦をつとめた長門にかわり、大和のポストに大将旗がひるがえった。

日本海軍は、国産で主砲や主砲塔を製造できるようになると、世界に先がけて巨大戦艦を建造するようになっていた。 金剛型戦艦の「比叡」「榛名」「霧島」に続き、扶桑型戦艦を建造する。 そして、八八艦隊計画に基づき、40センチ砲を搭載した長門型戦艦を建造して

1937年(昭和12年)8月21日。 日本海軍で140番目に計画された戦艦であることを示す、『A一四〇F6』の建造訓令が出された。 その主要目は以下のとおり。

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